岡山県・寺社巡り
岡山県・矢掛町・大日山・観照寺
正和元年(1312)舜栄和尚が遙照山蓮厳寺より下り、円道坊を建立したのが当山の起源である。くだって寛門五年(1665)十一世増秀和尚のとき、大庄屋福武家の外護により、景勝の現在地に移転し、観照寺と称す。本山は京都仁和寺、中本寺棒澤寺末となり祈願の道場となる。また萩原宮、星尾明神の別当職を務む。
十三世宥勢和尚の元禄十年(1697)に全焼したが、十七世輪幡和尚の勧進により本堂の再建がなされた。輪換の美の整う境内となり、密教寺院らしい構えとなった(文化十二年(1817)再建)
十九世法幢和尚の時代に庫裡再建(鬼瓦に安藤利平太の記禄)し、梵鐘を鋳造した(鋳匠高草仙二郎盛治作と伝う)。二十世湛海和尚の時代本尊大日如来修理(天保七年)した。また萩原官の別当職となる。二十六世智秀和尚は青年塾を開き文字一般を講義した。その後大阪高野山別院の執事長を歴任した。二十七世法秀和尚は昭和二十七年梵鐘供養を行い、昭和三十七年開創六百五十年祭を執行した。
本尊大日如来は伝教大師作と伝えられ、桧造り坐像である。もと吉備津神社三重大塔の本尊で鎌倉期の作といわれている。名松「不動の松」は先年枯死したが、五葉松、山茶花の古木により昔日をしのぶことができる。
境内に、樹齢三百年といわれる梅の木ガリュウバイ(臥龍梅)あり、毎年二月梅祭りがある。
裏庭には、サザンカの大木があり、花の咲く時期には多くの人が訪れる。
岡山県・総社市・魔法神社
魔法様(まほうさま)は日本の民間信仰の一つで、備前加茂(現在の岡山県)の化け狸として名高い伝説上のタヌキ「キュウモウ狸(キュウモウだぬき)」を牛馬の守護神として祀る信仰である。
岡山県総社市において槁および同市中尾滝山の魔法神社、同県加賀郡吉備中央町において上田西黒杭の火雷神社(からいじんじゃ)や細田の久保田神社(天津神社)でキュウモウ狸が祀られている。タヌキを神として祀る神社は西日本各地にあるが、キュウモウ狸は海外から日本へ来たとされるタヌキが祀られている珍しい例である。
岡山県・総社市・姫社神社
新羅の国から渡来してきたという新羅の王子・天日矛の妻(あめのひぼこ)阿加流比売(あかるひめ)を祭神として祀ってある。阿加流比売は比売語曾神とも呼ばれる製鉄の神。
天日矛は朝鮮半島から製鉄技術を伝承したといわれている。吉備国は製鉄王国であったことと関係があるといわれている。
また、高梁川西岸・新本川流域は製鉄関連の遺跡が点在し、さらには渡来系の秦氏が治めた地。秦氏は天日矛や阿加流比売を崇拝していたという。これとも関係があるものと思われる。
製鉄技術伝承に対し、恩義から神社を建て感謝の意を表したものと思われる。
岡山県・矢掛町・法悟山・妙泉寺
慶長五年(西暦1600年)、猿掛城の城主、花房志摩守正成(※)が毛利元清の遺領備中五千石を賜り、横谷御土井に居住しました。その際に、法華経の信仰厚く、先祖遙拝の霊廟を設置したことに当山は由来します。
慶長十年(西暦1605年)、父君越後守正幸(まさよし)公の逝去に際し、菩提所として寺院を建立、法悟山妙泉寺と号しました。京都妙顕寺より上行院日題上人を招聘し開山第一世としました。
明治維新を迎え当山に啓蒙舎を開き、温知館と号しました。明治五年に学制発布、翌年に横谷小学温知校と改称し、郷土の教育文化に貢献しました(日本銀行副総裁 木村清四郎氏を輩出)。
昭和二十二年 第二十五世 日醇上人入山。護法守護の霊験著しく、本堂、葛城堂、客殿、庫裏、鐘撞堂を新築。参道、境内、自動車道、石垣、山門も整備しました。
開山以来、四百年を超えて同じ場所で法華経の教えを守り続けているお寺です。花房正成公の館はもうありませんが、その墓碑は今も妙泉寺にてお祀りしております。
※花房正成:宇喜多家の中心として備中高松城の水攻めも考案した。
岡山県・総社市・軽部神社
建武元年(1334年)、福山城主 大江田式部大輔氏により祈願所として福山山頂に祭られていましたが、延宝6年(1678年)に現在の地に移転造営されました。昔、境内に垂乳根の桜と呼ばれる枝垂れ桜があったことから、乳神様として庶民の信仰を集めました。安産や母乳の出を願うため乳房を型取った手作りの絵馬が数多く奉納されています。
岡山県・倉敷市・鯉食神社
吉備の国平定のため吉備津彦の命が来られたとき、この地方の賊、温羅(うら)が村人達を苦しめていた。戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと、温羅はついに矢尽き、刀折れて、自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。
それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。 社殿は元禄14年(1701)4月、天保13年3月に造営し現在に至った。大正6年4月、庄村矢部字向山村社楯築神社を合祀した。大正6年10月4日神饌幣帛供進神社に指定された。
岡山県・総社市・備中国分寺
奈良時代に聖武天皇の発願によって全国に建立された国分寺のひとつ。仏教の力を借りて天災や飢饉(ききん)から国を守ることを目的に建てられました。
現在残っている建物は江戸時代に再興されたもので、境内には高さ約34mの五重塔がそびえ、吉備路を代表する景観として有名です。岡山県唯一の五重塔は重要文化財に指定されています。田園風景の中に建つ五重塔や、菜の花、レンゲ、ひまわりなどの写真撮影をしたり、サイクリングスポットとしての人気が高まっています。
岡山県・倉敷市・春日神社
春日神社は倉敷市浜町、倉敷駅の北東およそ900mのところに鎮座する神社です。東隣には、倉敷市立万寿(ます)小学校があります。
春日神社は「旧倉敷三大社」のひとつ。 旧倉敷 三大社は、1967年(昭和42年)に現在の倉敷市が新設される前にあった「旧 倉敷市」の1927年(昭和2年)発足当時のうち、歴史のある3つの神社を指したものです。
旧倉敷市は、1927年に都窪郡 倉敷町・大高村・万寿村が対等合併し新しい倉敷町として新設され、翌1928年(昭和3年)に倉敷市となりました。旧3町村それぞれの鎮守(ちんじゅ=地域の守り神となる神社)、倉敷の阿智神社・大高の足高神社・万寿の春日神社が、三大社と呼ばれるようになったのです。
春日神社の創建は、江戸時代初期の元和(げんな)年間(1615〜1624年) 400年以上の歴史がある古い神社なのです。
岡山県・吉備津神社
桃太郎伝説ゆかりの神社。 360mの美しい廻廊は必見です。
桃太郎(鬼退治)伝説の原型となったとされる吉備津彦命(きびつひこのみこと)と温羅(うら)にまつわる伝説が残っています。鬼退治の矢を置いたと伝わる矢置岩、鬼の首を埋めたと言われる御竈殿(おかまでん)など、伝説の舞台を体感できます。釜が鳴る音によって吉凶を占う「鳴釜神事」は多くの人に親しまれています。
1425年に再建された本殿と拝殿は全国で唯一の吉備津造り(比翼入母屋造り・ひよくいりもやづくり)という建築様式を採用し、国宝に指定されています。また、本殿から続く360mの美しい廻廊は一見の価値がある歴史的建造物です。
岡山県・星神社
天武天皇の白凰年間の創建と伝えられ、本神社の縁起書によると、当山に霊雲降り蔽うこと三十五日にわたり、その中に星のような光があるので、恐れて近づく人がない。
即ち三つの星・三つの巌が落ちた。これを崇敬すれば、土地が繁栄すると、これによってこの地に神社を構えて氏神として奉斎し、この地を真星邑と称えるようになった。明治四十二年五月十一日に天津神社、疫神社を合祀した。
川島ノ宮・八幡神社
当時は高梁川が吉備の穴海に注ぎ込む河口部であり、川嶋(日本書紀)の最高峰八幡山に鎮座、当初は八幡山全体が竜神信仰のご神体として崇められていた。次いで火の神、治水・農耕・植林の神が祀られ、天暦元年(947)宇佐八幡宮から八幡大神を、同2年には宗像三神を勧請、その後も神功皇后など4代5柱の神を祀り海神信仰を強める祭が加えられている。
倉敷市・阿智神社
美観地区の一角にある鶴形山の山頂に鎮座する倉敷の鎮守。 航海の安全を司る宗像三女神を主祭神としてお祀りする創祀1700年を超える古社です。
境内には日本一古い蓬莱様式の磐坐(いわくら)や曙藤としては日本一の古木といわれる県指定天然記念物「阿知の藤」等があります。 秋祭りには倉敷名物“素隠居が出る時代行列の御神幸があり、三女神の舞”や“獅子舞”等が奉納されます。
吉備津彦神社
神が降りる山として崇拝されたパワースポット!!
桃太郎のモデルとなった吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祭る神社。伝統的な神社建築の建物と深い緑の樹木が一体となった景観は荘厳華麗な雰囲気です。
本殿は県指定の重要文化財に指定されています。古代より神の山として崇拝された“吉備の中山”は神が降りる場所とされ、パワースポットとして知られています。夏至の日には朝日が鳥居の正面から昇ることから(朝日の宮)とも呼ばれています。
倉敷市・穴門山神社
創建年代は不明だが、倭姫世記という古書によると、崇神天皇から天照大神のご神体である御鏡を「何処へおまつりしたらよいかさがしてきなさい」という命を受けた豐鋤入姫命が、紀伊国奈久佐浜宮から備中国名方浜宮(現在の真備町穴門山神社)へ奉遷し、4年間奉斎したと記されている。
しかし永正年間に戦災にあい、焼失。 地元の郷民は相談して、川上郡高山村(現高梁市)に穴門山神社の行在所を設け、避難した。 その後兵乱が続き再興する時期がなかったが、享保5年庚子3月、再興の命があり、岡田藩主従五位下伊藤播磨守長救が再び真備町高山に社殿を建築し同年9月24日遷宮を執行した。
高梁市・穴門山神社
創立は崇神天皇54年と言われているが、延喜、延長の時代この神社は、備中国下道郡長田山と記されており、その地名にまつわる神々の伝説も多い。倭姫世記という古書によると、崇神天皇から、天照大神のご神体である御鏡を、「何処へおまつりしたらよいかさがしてきなさい」という命を受けた豐鋤入姫命が、紀伊国奈久佐浜宮から備中国名方浜宮(現在の穴門山神社)へ奉遷し、4年間奉斎したと記されている。朝廷の当社に対する崇敬の篤かったことがうかがえる。
祭神は、天照大神、倉稲魂大神(豊受大神ともいう)、そして日本武尊の第2皇子足仲彦命、吉備武彦の娘で日本武尊の妃である穴門武姫命の4柱を併祀している。
社殿は寛永9年(1632)秋焼失したものを、備中松山城主の池田出雲守長常が、寛永14年(1637)再建寄進した。権現造りの建築様式で、特に本殿妻側は懸魚、虹梁、支輪、斗きょう組(斗組)で装飾性が高く、余り県下にその例がなく県指定文化財である。
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