軽登山・城郭・史跡巡り

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お勧めの軽登山・低山・史跡・城郭巡り

総社市・城山・石畳神社・荒平山城跡

岡山県・総社市の石畳(いわだたみ)神社は、高梁川が大きく蛇行している淵に突き出すように聳え立つ高さ約60mの巨岩がご神体。『万葉集』巻七の作者不詳の歌に「岩畳、畏き山と知りつつも、我は恋ふるか、ともならなくに」と詠われ、平安時代の『延喜式』にも名前が載っている由緒ある神社です。この石畳神社の登拝ルートは、そのまま山の頂上部にある荒平山城跡への登山道につながっています。対岸のJR伯備線・豪渓駅から歩いて行けて、短時間で古代の巨石信仰の聖地と戦国時代の古戦場を同時に訪れることができ、尾根からの眺めも良いので、歴史好き・ハイキング・登山としては、お勧めです。

荒平城は室町時代中期、永享年間(1429~1440年)に築城されたと云われる。
天守閣を持たない城で、防御柵と土塀で造った7壇の砦で出来ている。戦時のみの山城で、平時は麓に館があったと思われる。
天正3年(1575年)の備中兵乱では城主川西三郎左右衛門之秀は松山城主三村元親に味方した為、毛利軍の攻撃を受けた。伊予部山に陣を構えた毛利軍は、1月17日山麓に火をかけ攻め寄せたが、山は急峻で川を控えた無双の要害で、城兵は石や木を落とすなどし反撃。毛利勢は数百人の死者を出し、後も見ずに逃げ去った。
これを聞いた小早川隆景は(小敵と云えども侮る勿れ)と1万5千の大軍をもって総攻撃をかけた。之秀以下城兵300よく奮戦するも多勢に無勢、ついに19日之秀は城兵の助命を条件に降伏し讃岐へ落ちた。

崖の上の石畳神社御神体
石畳神社・鳥居
石畳神社・御神体
御神体から見る高梁川

荒平山城跡
堀切跡
荒平山城跡
荒平山城跡から見る高梁川・総社市
秦・大野地区・桜
秦・大野地区・桜
城山・山桜
城山・山桜
秦・大野地区・桜

倉敷市・石田山(石鉄山)

真備町尾崎の石田山の東端頂の巨石に浮彫りされた像高1.8mの磨崖仏で、作者、製作年代は不明ですが、室町末期の作といわれています。毘沙門天は四天王の一つで、北方を守る武神として広く信仰されています。

この磨崖仏がある山塊は、鳥ヶ岳城跡のあった石田山と峰続きで、城の見張り台だったともいわれています。山陽道を攻めてくる敵の数を確認するために道を曲げた「大曲」(約3キロ東)を見通すことができます。

この峰は石槌山とも呼ばれており、大晦日には地元の人々が山頂に登って火を焚き、初日の出を迎える信仰が現在でも残っています。

石造毘沙門天立像
石田山・山頂
石田山山頂から見る旧山陽道
石田山山頂から見る旧山陽道

笠岡市・御嶽山・幻虹台

水島灘に面した標高310メートルの御嶽山は、山頂から山麓にかけて龍王宮、御滝権現、御嶽山三十三観音等があり、地元の厚い信仰の対象となり愛され親しまれています。山頂手前にある展望台は「幻虹台」と呼ばれ、瀬戸内海に広がる笠岡諸島を中心とした島々がパノラマで眺めることができます。その眺望の素晴らしさから、昭和25年に国立公園の指定を受けています。

特に朝・夕日の瀬戸内海のキラキラした海の眺めは素晴らしいです。

御嶽山中央部に駐車場があり、途中からの四尋山のハイキング・登山なども楽しめます。

笠岡諸島案内図
四尋山・御嶽山・案内板
御滝神社・鳥居
御滝神社・本殿
御滝神社・本殿
御嶽山・案内板
御嶽山から見る朝日
幻虹台から見る神島
幻虹台

備中松山城

標高430mの臥牛山頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、1683(天和三)年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。

この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は激しい争奪戦が絶えず、目まぐるしく城主交代が繰り返されています。

登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたちが舌を巻いた”難攻不落の名城”の面影をうかがい知ることができます。白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守。秋には大手門付近の木々が紅葉し、岩壁が燃えるような朱色に覆われる景色は圧巻です。

備中松山城 – 天空の山城 (bitchumatsuyamacastle.jp)

備中高越山城跡

高越山城は標高172.3mの高越山山頂に築かれており、現在は公園として整備されている。

山頂の主郭は一段小高い土壇があり、ここに高越城の碑や北条早雲誕生之碑などが建てられている。この主郭を中心に東、南、北の三方に曲輪がある。東下の曲輪iiiから東へ降りて行く道の途中に石組井戸がある。

弘安4年(1281年)宇都宮貞綱によって築城されたといわれるが定かではない。 蒙古襲来に備え執権北条氏から山陽道警護のため、下野の宇都宮氏が築城して籠ったといわれる。

享徳2年(1453年)伊勢新左衛門行長が六庄三百貫の知行を得てこの地に下向し高越山城を居城とした。戦国時代に小田原を拠点とした小田原北条氏の祖、北条早雲は伊勢盛定の子としてこの地で誕生したと云われる。

総社市・秋葉山

権現岳展望台

総社市・三輪山古墳群・百射山神社

弥生時代後期から古墳時代初頭の墳墓群です。
この墳墓群は、石を箱形に組んだ箱式石棺、土を掘って埋葬した土壙墓(どこうぼ)、特殊な器台を棺に転用した特殊器台棺など多様な埋葬を行なった集団墓と、特別な人のために造られた前方後円形の墳丘墓から構成されています。
墳丘墓の後円部には竪穴式石室が築かれ、石室内からは中国製の鏡、直刀、剣、銅の矢じり、鉄の矢じり、ガラス小玉などが出土しています。
この墳丘墓に立てられていたと思われる特殊器台と同様の文様をもつ特殊器台が、最古級の古墳とされる箸墓古墳をはじめ奈良県の古い古墳から出土しています。吉備と倭(やまと)の深い関わりを示す貴重な資料です。
なお、弥生時代の終わりごろ、吉備の葬送儀礼に使用された特殊器台は、古墳に立て並べる円筒埴輪(えんとうはにわ)へと変化していきます。吉備で発生した葬送儀礼が、後の倭を中心とした古墳時代の葬送儀礼に取り入れられたことは、古墳時代の成立に吉備が大きく関わったことを示すものです。

岡山市・造山古墳

造山古墳は、築造時期が5世紀前半に推定されている巨大な前方後円墳であり、古墳時代(3世紀末~7世紀初め)に全国で築造されている前方後円墳5,200基の内で、第4位の規模を占めています。

前方後円墳は、「倭国(わこく)」と呼ばれていた古墳時代の日本列島において、大和(現在の奈良県)を中核にした政治体制の下で、社会的ステイタスに基づいて築造された首長の墓と評価されています。

総社市・作山古墳

作山古墳は、全国第10位、岡山県下第2位の規模を誇る前方後円墳で、岡山市の造山古墳(全国第4位、岡山県下最大)に次いで、5世紀中ごろに築造されたものです。
丘陵を三段に整形加工した斜面と平らな面からなる墳丘は、現在草と木で覆われ一見山にしか見えませんが、築造当時は平らな面に5千本以上もの埴輪(はにわ)が立て並べられ、斜面には石が敷き詰められていました。
自然の景観の中にある巨大なモニュメントは、吉備の大首長の権力を誇示したものと思われます。
しかしながら、作山古墳は畿内の大王墓と異なり、後円部は正円ではなくだ円形で、前方部も台形状の突出がみられるなど、不整な形態をしています。また、前方部の前面には丘陵の一部が、取り除かれないまま残されていることから、作山古墳に葬られた吉備の首長は、畿内の大王ほど、古墳築造にかける余力がなかったのではないでしょうか。
造山・作山の両古墳は天皇の墓とされていないため、中に立ち入ることができる最大の古墳です。

高梁市・弥高山公園

弥高い(いやたかい)という意味から名付けられ、ご飯を盛ったような山の姿から別名「飯(いい)の山」とも呼ばれるこの山は、広島県との境に位置する、ひと際高い山です。それでも、標高654mとハイキングには手ごろな低山で、「雲海」が見えるということで国内の名山の1つにもなっています。

山頂の展望台からの360度のパノラマは圧巻です。北は伯耆(ほうき)大山、南は水島・福山の工業地帯、気象条件がよければはるか瀬戸の島々、四国の山々までもが眺望できます。

総社市・鬼ノ城・岩屋地区

岩窟の屋根の部分にあたる岩の大きさは縦15m、横5m、厚さ5m。伝承によれば、温羅がこの巨大な岩を差し上げて岩窟を造り、住処とした。「岩屋」の地名もこの岩窟に由来するとある。

現在の岩屋寺は、毘沙門堂と小さな本堂を残すのみの無住の廃寺となっている。それでも、平安時代末期には新山寺(現在の総社市黒尾)とともに山岳仏教の拠点となり、盛時には岩屋寺と新山寺、あわせて38坊を擁する地方でも屈指の霊場であったという。しかし天文~天正年間(1532~92)の戦乱によって寺勢は衰え、寺の伽藍もほとんど消失し、境内に残る毘沙門堂だけが往時をしのぶ唯一の遺構とされている。

岩屋寺
鬼の昼寝岩
鬼の差し上げ岩
岩切観音
皇の墓

総社市・福山

太平記」に記された「福山合戦」の地として有名な山
室町幕府が開かれる少し前(1336年)、京都の戦いで敗れた足利尊氏は九州に逃れ、勢力を盛り返しながら再び都を目指し、瀬戸内海と山陽道にわかれて攻めのぼりました。このとき、後醍醐天皇方の新田義貞軍の武将・大井田氏経は福山を占拠し、その東上を阻むためにこの城へ立てこもりました。

足利直義(尊氏の弟)率いる30万の軍と、福山を守る1500の軍との間に激しい攻防が行われ、その戦いは三日三晩続いたといわれています。
標高302mの福山は、古代より山岳仏教の寺院・福山寺があり、山頂部には平坦化された寺域と礎石がみられます。福山城はこの寺を改変して砦にしたため、にわかづくりの門の跡・土塁・井戸跡のほか、寺院の古瓦片や窯跡が残されています。国指定史跡。

今では総社市の人気のハイキングスポットになっており、元旦には初日の出を拝むイベントなども開催されています。

総社市・鬼ノ身城跡

築城年代は定かではないが南北朝時代の至徳2年・元中2年(1385年)には今川泰範が城主であった。

文亀元年(1501年)頃から上田氏が代々在城することとなる。 天正年間には備中・松山城主三村元親の弟実親を養子に迎えている。

天正3年(1575年)備中兵乱により三村氏の諸城を落とした毛利氏が鬼ノ身城を囲むとこれに抵抗したが、城主実親は城兵を救う事を条件として自刃した。 その後毛利氏は宍戸隆家を城主とし城代として佐々部美作守を置いた。その後、隆家の嫡子元秀の子元継が城主となるが関ヶ原合戦後廃城となった。


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