こんにちは、いとちゃんです。 今回の歴史散策ハイキングは戦国時代に名をはせた関東後北条氏の祖・北条早雲(伊勢新九郎盛時)の生誕の地・岡山県井原市・荏原町をハイキングで周りたいと思います。
目次
井原市・荏原ルートマップ
高越山城跡・法泉寺 / いとちゃんさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ
ルートは高越山駐車場~法泉寺まで(約3.7㎞) 法泉寺~高越山城跡(約3.7㎞)の往復約8.4㎞のルートになります。
高越山城跡周辺以外は舗装路での歩きやすいですが、距離と登りが多いルートの為、事前準備をしていた方が良いと思います。
関東後北条氏・歴史ロマン
戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名が北条氏(後北条氏とも言われます)です。歴代当主五人は、北条五代と呼ばれています。
明応4年(1495)、関東で理想の国家を作ろうと、大森氏を退け、北条早雲が伊豆韮山から小田原城に入りました。
以後、北条氏は小田原を拠点として、多くの人材を上方から招き、産業を興し、着々と勢力を伸ばしていきました。二代目氏綱が関東支配の礎を築き、三代目氏康の時代には城下町の形態も整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄しました。
そして、天下統一の機運が高まる中、四代氏政・五代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築きましたが、天正18年(1590)、約18万の大軍に小田原を包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城し、北条氏は事実上滅亡しました。
法泉寺
どちらかと言えば、お寺を砦のような作りに変更しているようです。 堀・塀などをいくつも張り巡らせているようだ。
永享2年(1430年)、高越山城主 伊勢新左衛門盛定が古かん仁泉(こかんにんせん)和尚を招き、曹洞宗の寺院として創建した備中伊勢氏の菩提寺です。
伊勢新左衛門盛定は、備中伊勢氏の守り本尊として大切に信仰していた『聖観音菩薩』を法泉寺のご本尊の一体として納め、安置しました。
また、その嫡嗣の伊勢新九郎盛時は、後に小田原の後北条氏の初代とされた北条早雲で、古かん仁泉和尚より当時の武士の基本である武芸と学問を教えられたと伝えられています。このため早雲寄進の摺袈裟や早雲筆の禁制など貴重な資料が伝えられています。
寺院は総門、二の門、三の門(廻廊門)の三つの門があり、石垣が高く城郭の構えをなしています。
まさにお寺というよりは砦のような姿をしています。
高越山城跡
備中高越山城は北条早雲の出自と備中伊勢氏の盛衰を見え、後に毛利氏による支配を伝える戦国の山城になります。
備中における山陽道の要害地としては、猿掛山城(矢掛町)に次ぐ要害地です。
城は山陽道と小田川を足下に見下ろす高越山(172m)に築かれ東は山陽道を矢掛から猿掛山城辺りまで、南は毛利氏の軍港であった笠岡から矢掛方面に北上する人馬の行き来が山陽道に合流する地点を俯瞰することができます。
高越山城は山陽道を東上する軍勢だけでなく瀬戸内海を船で下り笠岡の港へ上陸した毛利勢が、備中・備前の境界地点に展開する上で重要な補給基地でした。
本丸からは旧山陽道・小田川も良く見渡せ、備中南部の要害の地だったのがよくわかります。
まとめ
今回の歴史散策ハイキング・は備中高越山城跡・法泉寺と関東後北条氏の祖(北条早雲)の生誕地を巡ってみました。
自分の足でゆっくり回ってみると色々な面白い発見・当時の面影なども少しですが見えてきて、それもハイキングの醍醐味でしょうか。
今回はここまでです。 ここまでのお付き合いありがとうございました。
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