こんにちは、いとちゃんです。 今回の歴史散策は戦国時代・天正10年備中高松城の戦いを毛利側の援軍で到着した勇将・吉川元春の陣所跡、(庚申山・岩崎山)周辺を散策していきたいと思います。
目次
庚申山・周辺散策・歴史MAP
庚申山(岩崎山)周辺散歩 / いとちゃんさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ
天正10年(1582)5⽉、秀吉率いる3万の軍勢が、庭瀬を除いた5城の落城によって孤⽴した⾼松城を取り囲みました。「備中⾼松城の戦」の始まりです。秀吉はまず、龍王⼭、現在の最上稲荷境内にある⼀の丸に本陣を構えました。一の丸から高松城まで約2㎞で、眺望に最適の地です。しかし、備中高松城は四面を深⽥に囲まれた要害地形の城であり、城主・清⽔宗治公以下城兵5千は命を懸けての防戦となり、容易には落ちませんでした。⽑利総軍の出陣を予想した秀吉は、急遽、安⼟城の信⻑へ出陣を要請したのです。
また、秀吉は、黒⽥官兵衛の献策をいれて秘策の「⽔攻め」に取りかかりました。城の近くを流れる⾜守川の東・蛙ヶ⿐から全⻑約3km、⾼さ約7mの堤防を築いて、⽔を引き込もうというのです。本陣を⽯井⼭に移し、周囲に⼤号令を発し築堤を急ぐ秀吉軍。折しも梅⾬どき、築堤を12⽇で完成させ、⾜守川の堰を切った⽔はまたたくまに⽔位を増し、⾼松城は湖上に浮かぶ孤城となりました。築堤完成2⽇後の21 ⽇、⽑利輝元を⼤将に、吉川元春・⼩早川隆景の⽑利の援軍4万が到着。陣地を挟んだ湖⽔を前に、両軍とも為すすべも無く睨み合いが続き、戦況は膠着状態。⼀⽅、⽑利の外交僧である安国寺恵瓊を介した講和も、領⼟割譲と城主宗治の死を堅く主張する秀吉との間は埋まらず、和議には⾄りませんでした。
羽柴軍の高松城攻めの際は毛利軍と秀吉軍が山々に陣を構えてにらみ合っています。 備中高松城を攻める羽柴秀吉の兵25,000に対して 毛利方の軍勢は、総勢約50,000人、内訳は下記のとおりです。
高松城内 清水宗治 5,000人
日差山 小早川隆景の本陣 20,000(毛利元就三男)
庚申山 吉川元春の本陣 10,000(毛利元就次男) 今回の散策場所になります。
幸山城 毛利元清の本陣 5,000(毛利元就四男)
猿掛城 毛利輝元 総大将 10,000(毛利元就嫡孫)
合計 50,000人
※ 詳細は諸説あり毛利側の援軍は10000程だともいわれています。
庚申山
庚申山の由来ー昔この山には、積善寺という多くの堂塔僧房をもち、楼門を構えた大寺があったが天正10(1582)年高松城水攻の時、毛利の勇将吉川元春がここを陣所としたため、その兵火によってことごとく焼失したと伝えられている。
その後度々復興を企てられたが、元禄4(1691)年に至り本隆寺の住持日正が新たに堂宇を建立し、大梵天王、帝釈天王、及び鬼子母神を奉祀して、庚申祭を行った。
それ以来、霊験あらたかな日本三代庚申の一として広く世に知られるに至りました。
庚申山からの眺め
庚申山からの眺めは只今、木々が生い茂り見晴らしの良い景色とはいきませんが、南側の景色(足守川・造山古墳・日差山・加茂城跡・日幡城跡)などが見えます。
※ 合戦当時は木々は伐採され高松城周囲は見渡せたと思います。
庚申山北側・仏岩
残念ながら岩に石仏を掘られた年代は不明ですが、毘沙門天像と同年代ではないのかと思われます。(詳細は調べても分かりませんでした)
しかしながら、仏岩までの道のり・周辺は地元の方々に綺麗にされており、古くから信仰があったのは分かりました。
活動まとめ
今回は庚申山(岩崎山)周辺を歴史散策してみました。 岡山県のこの近辺は戦国時代の歴史の史跡の部分が多く残っており興味深い地域ではあります。
これからもYAMAPアプリを使用してアウトドア活動の面白さを広げていきたいと思います。
今回はここまでです。 ここまでのお付き合いありがとうございました。
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コメント
こんにちは!こういった歴史的背景を頭に入れてその場所を訪れると、感じ方も変わりますね。ぜひ訪れてみたいと思いました。
こんにちは、時代の歴史・地域の歴史などに思いをはせながら歩くと健康・体力維持も出来るので、一石二鳥で楽しめますので是非試してみて下さい。